作家の卵との出会い ー名前も知らない、一瞬の物語ー

昨日急に思い出したことがある。
それは、私が20代半ばだった頃のお話です。

神泉から駒場東大前までの道を、
私は毎日、少し早足で歩いていた。

派遣という立場で通っていたあの頃、
未来のことよりも、その日の仕事をきちんと終えることの方が大事だった。

そんなある日、
「作家を目指しているんです」
と、ひとりの青年に声をかけられた。

「取材させて下さい。」
芸能人でも何でも無い一般人の私に取材する意味あるのかな?
と思いつつも、
何だか珍しい出来事にちょっとだけ好奇心が湧いて、
付き合ってみることにした。

ちょうどすぐ目の前にあった小さな喫茶店に入り、取材に応じた。

今はもう、何を聞かれて何を話したのか
記憶にないほど平凡な話をしたように思うけど、
彼の真っ直ぐな目、少し不器用な熱意を感じて、
出来るだけ誠実に答えたつもり。


それからしばらくして、そんな出来事はすっかり忘れた頃だった。
駒場東大前のホームで、
突然、弾んだ声が背中に届いた。

「あの時は、ありがとうございました!」

深々と頭を下げる彼の顔は、
あの日よりも、少しだけ自信に満ちて見えた。

最後の言葉は、電車の音にかき消されてしまったけれど。


あの彼は今、どこかで物語を書いているだろうか。

名前も知らない。
肩書きも、その後も知らない。

ただ、あの日のホームで見た
あのまぶしいほどの笑顔だけは、
今もはっきりと覚えている。

人生には、ときどき
名前のない出会いがある。

けれどその一瞬が、
誰かの背中をそっと押していたり、
押されていたりする。

本屋の棚に並ぶ一冊のどこかに、
あの日の私の言葉が、ほんのひとかけらでも混ざっているとしたら——

それだけで、十分なのだと思う。

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